「人それぞれだよね」
「どっちの考えも間違ってないと思う」
「絶対的な正解なんて、この世にあるの?」
──そんな言葉が、当たり前のように口にされる世界。
だけど僕は、ずっと違和感を覚えていた。
「本当に、どっちも正しいなんてことがあるのか?」
表面的には優しさや寛容のように見えるその言葉が、
僕には“無責任な放棄”にしか思えなかった。
僕は知りたかった。
正解があるのか、ないのか。
信じるに値するものは、本当に存在するのか。
そしてその問いの先に見えたのは──
“相対”のそのまた奥にある、真実の存在だった。
世界はすでに“階層”でできている
「すべては相対的だ」
そう語られることがよくあります。
たしかに、立場が変われば見え方も変わるし、どの意見にも一理あるように思えるかもしれません。
しかし僕は、現実の構造を見たときに、どうしても“相対”だけでは説明しきれないものを感じるのです。
この世界は、すでに“階層”でできている。
誰がどれだけ努力したか、ではない。
誰がどれだけ善人か、でもない。
構築されているかどうか──
そこに、すべての分かれ目がある。
情報発信の世界でも同じだ。
発信しても誰にも届かない人がいる。
逆に、何を言っても影響を与えてしまう人もいる。
同じ言葉を使っても、刺さる人と刺さらない人がいる。
なぜか?
それは、言葉がどれだけ構築されているかによって、“伝わる階層”が決まっているからだ。
人は平等ではない。
言葉も平等ではない。
結果も、影響力も、すべてが**“構築の有無”によって階層化されている。**
これは冷たい話じゃない。
むしろ、とても誠実な構造だ。
なぜなら、構築されたものは、必ず伝わるからだ。
だから僕は、階層を否定しない。
むしろ、その構造を受け入れたうえで、
どうすれば自分の言葉が“届く階層”に到達するかを考え続けている。
このように考えると、
世界にある多くの“差”や“違い”が、ただの運ではなく、構築の積み重ねによる結果であることに気づくのではないでしょうか。
整合性がなければ、真実には触れられない
これまで僕は、
「どうすれば人に届く言葉が書けるのか」
「どうすれば信じてもらえるのか」
──そんなことをずっと考えてきました。
たくさんの文章を読み、いろんな言葉に触れて、気づいたことがあります。
それは──“整合性のない言葉には、人は反応しない”ということです。
整合性とは、
言葉と行動が一致しているか?
主張と背景に矛盾がないか?
語られる内容が、その人の生き方とリンクしているか?
という、“構築された誠実さ”のようなものだ。
それがなければ、どんなに美しい言葉も、どこか軽く聞こえてしまう。
逆に、完璧なコピーライティングの型を知らなくても、
整合性がある人の言葉は、たとえ不器用でも、強く刺さる。
なぜなら、
その言葉の背後に“生き方”がにじんでいるからだ。
整合性のないコピーは、いずれ見抜かれる。
どれだけ型を使っても、
どれだけ心理テクニックを詰め込んでも、
“その人自身が信じていない言葉”は、伝わらない。
コピーライティングの本質は、テクニックではない。
「信じていることを、構築して、言語にすること」だ。
それができたとき、言葉は真実を帯びる。
そしてその真実こそが、最終的に人を動かす。
だからこそ、僕は言葉を書くとき、必ず問いかけます。
「これは本当に僕の言葉か?」
「この主張は、僕の過去と今に整合しているか?」
「この文章に、魂を込める理由があるか?」
もし、その問いにNOが出るなら、
その文章は──まだ“真実”じゃない。
整合性とは、嘘のない構築です。
そして真実とは、その整合性の奥にだけ、そっと顔を出してくれるものだと思います。
だから、僕はコピーを書く
僕は、ただ商品を売るためにコピーを書いているわけじゃない。
アクセスを集めるためでも、収益を生むためでもない。
もちろん、それらも目的の一部ではある。
だけど──それだけじゃ足りない。
僕にとってコピーを書くという行為は、「世界に対しての在り方そのもの」なんです。
僕たちは、生きている限り何かを伝えている。
沈黙でさえ、言葉になってしまう時代の中で、
「何を語るか」「どう語るか」「なぜ語るのか」──それらを意識しないまま発信するのは、
自分を世界に対して“未定義のまま晒している”ことと同じだ。
だから僕は、書く。
言葉に整合性を通し、構築された意志を込め、
自分の思想を“伝わるかたち”に変換する手段として、コピーを書く。
真実を知りたい。
真実を届けたい。
そして、真実に触れた誰かが、自分の言葉で“次の真実”を語ってくれるようになったら──
それが僕にとって、何より嬉しい報酬なんだ。
コピーは、手段じゃない。
コピーは、“思想と秩序を言語に変える技術”であり、
僕がこの世界で“構築者”として立つための、唯一のツールだ。
真実は、相対を越えた先にある。そして、その先に僕はいたい
この世界には、いくつもの視点がある。
どれも間違っていないように見えて、どれも正解にはたどり着かない。
そんな“相対”の海に、僕たちは日々放り込まれている。
そして多くの人は、そこで足を止める。
「どれも正しい」で思考を終わらせ、安心して、立ち止まる。
でも、僕は違った。
どうしても、真実を知りたかった。
「じゃあ、どれが一番深いのか?」
「その言葉に、矛盾はないか?」
「信じるに値するのは、どれなのか?」
問いを投げかけ、構築し、壊し、また組み直して、
ようやく一つの答えにたどり着いた。
真実は、“相対”を越えた先にしかない。
そして、その真実は、
“整合性”という構造を通してしか見えてこない。
だから僕は、コピーを書く。
ただ伝えるためではなく、
真実に近づくために。
僕にとってコピーライティングとは、
この世界に「自分という構築物」を差し出す行為であり、
そこにしか存在できない「思想と秩序の証明」だ。
凡人でも世界を動かせる──
それは、ただの願望じゃない。
構築された言葉は、現実を変える。
そしてそれは、どこまでも“真実に向かおうとする意志”からしか生まれない。
僕はその先にいたい。
相対の海ではなく、その向こうにある一点の真実のもとで──
静かに、でも確かに、言葉を書き続けていたい。